2018年10月29日月曜日

空飛ぶロボットは黒猫の夢を見るか? part 5

私のロボットが書いた文章をお楽しみください。

かなわない人 留学生の送別会で、以下のようなスピーチをした。 • 今日は本の読み方、特に医学書籍との向き合い方を覚えていってください。 • 教科書なり、論文なり、書物を読んでその時に必要な知識を得る。というのがある意味正しい本の使い方ではありますが、ただ単に「知りたいことを調べる」という付き合い方をしている間は、皆さんが臨床研究者として成長することは無いでしょう。 • 私が考えるに、本と向き合うために必要な態度とは、「畏怖」であろうかと思います。単純に著者に対する尊敬の念という意味ではありません。本とは、読者に怖れの衝動を与える、いわば攻撃的な存在であるとすら言えるでしょう。 • 皆さんはこの一年で色々なことを私たちスタッフから学んだことと思います。指導者がいる環境であれば、知識はその人物から得ることができます。ただし、その方法では指導者がいなければ学ぶことはできませんし、弟子がいなければ指導者の知識も継承されることはありません。例えば、皆さんが将来死んだとして、それまでに技術や知識を誰にも継承しなかったとしたならば、皆さんの医師としての人生はほぼ無意味なものになるでしょう。患者として関わった数千人になんらかの個人的なインパクトを与え、100年も経てばその全員が死ぬ。人類の進歩にはほぼなんの影響も与えない。 • ともすると無意味に消えてしまうこうした医師としての営みに、唯一意味を与え得るのが書物であると言えるでしょう。書物は、「個人の所有物」としての経験や知識を個人の人格や人生から切り離して、「人類の財産」へと昇華させる唯一の形式です。賢い猿というのは時々見かけます。その子孫が継続的に進歩していかない決定的な違いが、この「知識の継承」の有無によっています。私たちが本を書くとき、著者は無限の生徒を前にしています。また、私たちが本を手に取るとき、読者は同様に無限の師に学ぶことができるのです。 • 皆さんが地元に帰ったら、まず大学の図書館に足を運んでください。呆れるほどの時間をかけて、先人たちが知識を蓄積し体系付けてきたという形を実感してみてください。個人の人生と切り離されたそれらは、いわば人類のそのものを具現化し、明確な意思を持って皆さんに語りかけています。 「われわれはこれだけのものを積み上げてきた。 お前は、この上に何かを積み上げることができる存在か。 あるいは、個人的な目的のために知識をかすめ取るだけの存在なのか。」 • 書物は寛容です。 知識を利用するだけの者を咎めることはありません。 ただし、どの時代であれ、そのような者が送った人生を書物は価値あるものとして愛してくれることは無いでしょう。 • 万人が恩恵を享受でき、万人がその価値を認める存在そのものに、お前は無価値であると否定される恐怖。 これが私が書物に感じる「畏怖」の正体です。 • 皆さんとはひとまずこれでお別れになりますが、われわれスタッフはこれまでさまざまな形で人類の営みにページを挟んで来ました。皆さんがこれから加えて行くであろう新しいページと、何百年か後に誰かの書く書物の中で参考文献として再会できれば望外の喜びです。 この辛気臭いスピーチは額面通りの話をしたかったわけでもなんでも無く、毎日患者だけ見てりゃあそれ以上は無いんだと言って研究活動を否定するおじさんたちに、 「皆さんが将来死んだとして、それまでに技術や知識を誰にも継承しなかったとしたならば、皆さんの医師としての人生はほぼ無意味なものになるでしょう。患者として関わった数千人になんらかの個人的なインパクトを与え、100年も経てばその全員が死ぬ。人類の進歩にはほぼなんの影響も与えない。」 というフレーズを臆面もなく公共の場で言い放つためだけに考えたイヤミだったのだが、前理事長だけが正確に私の意図を読み取って反撃した。 「医師はまず、目の前の患者に幸福を与える立ち位置から始めるべきであり、若い人にはその本質を語ってあげてほしいなぁ」というものだったが、 この人は、やはり切れ者だと思う。 (おまえの意見を全て否定するものでは無いが、後世に残らない臨床だけを行い定年を迎えようとしている医師が多数臨席している会での発言としては看過できない。若者に対するメッセージとして発せられたものだから、その体で否定させてもらうが、つまりはお前が批判したがっている管理者連中の生き方を理事長としては支持させてもらう。) という意味だ。 これを即答で返してくるのだから敵わないな、と思いつつ、 「先生の解釈に干渉するつもりはありませんよ。」と確認したところ、 「私もです。」と帰ってきた。 (それをわかった上で、私は持論を曲げないよ。)に対して、 (それでいいよ、私も彼らの全てを肯定しているわけじゃ無い。)というわけだ。 この舌戦は深読みでもなんでもなく、その後の医局会で「指導的立場にある人間が自身でアカデミックな活動をする余裕が無いのならば、中堅どころの活動を積極的にサポートしてほしい。」という発言に反映させた上で、「これでいいかい」と確認してきた。 この人物の恐ろしいところは、このようなやりとりの中で言質を取らせずに明確な意思を発するところだ。 最初の舌戦は異動直後の医局会だった。 「新任の先生は何か言いたいことはないか」という発言に対して、 「まだ何の貢献もしてませんので、今私から言えることはありません」と返したところ、 「この病院はみんなの病院だから、言いたいことは言ってくれて良い」と返された。 つまりは、(数字を出したら言いたいことを言うが、それで良いか?)に対して、 (競争の原理を持ち込まれるのは困る。基本仲良くやってくれ。発言力を与えるのは数字以外の要素だ。単に数字を揃えただけでは何年いても今以上の立場を与えないよ。)と牽制された形だ。 その上で、発言する対象を限定しなかったのがまた狡猾だ。 何かを変えたいのなら、トップダウンの指示系統に乗せるのが一番早いから、直接理事長に進言しろと言う意味だろうと解釈して、それ以降は議論の余地のないことは理事長に直接持っていく形で問題なく運用できている。 明確に全員に対して発言した上で、真意を汲み取れなければチャンスを活用できない、という含みを持たせるのが実に上手い人物だ。 一方で簡単に言質を取らせてしまう迂闊な管理者もいる。 異動初年度に、大学でやっていた活動の続きで多くの学会や研究出張をしたが、「今やってるのは大学の続きでしょ。うちの病院でネタができたら好きなだけ外国に行けばいいよ。」とオフィシャルに発言してしまうタイプの管理者だ。恐るべきことに、その発言を他の全ての管理者が訂正しなかった。入職時に理事長とは、「1人雇って儲けがいくらという企業の都合に興味はない。この病院に、地域貢献としての専門医療とアカデミズムを提供するという目的でなら、仕事をする。」という約束をしていた。とはいえさすがにどうかと思い目で追ってみたが、じっと見つめ返すだけだったので驚いた。 当然翌年は30以上の業績を出して、2週毎に留守にした。以降10年近くそのスタイルを続けている。 経験的に、カリスマ性の高い事業主は「額面通りの会話」をしない。言葉は明確、意味は分かれば明確。分からなければ付き合いが続かない。 今現在、私が最も会話を多く持つ職員は皮肉にも前理事長だ。 30歳しか離れていないこの人物との差を埋められる気がしないが、何とかこの海千山千を彼が生きている間に学びたいと思う。

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